パリのカフェの物語 

プロコープの豪華な店内
プロコープの豪華な店内


 パリに初めてカフェという場ができたのはフランス革命より前のこと。サン=ジェルマン・デ・プレ近辺で何人かの人たちがオリエント風のカフェを作っては失敗し、初めて成功したといわれるのがプロコープ。これは1686年にフランチェスコ・プロコピオという人物が同じくサン=ジェルマン・デ・プレの近くに開いたフランス風のカフェ。プロコピオは商才に長けた人物で、フランスで初めてカフェを成功させただけでなく、故郷のシシリアからうっとりするような香りのアイスクリームを仕入れ、パリでアイスクリームを広めたのも彼なのです。彼はお店が上流階級に受け入れられるよう、シャンデリアや鏡、大理石のテーブルなどを使用し、上質な空間でのきちんとしたもてなしを大切にしました。この様式はパリのカフェのスタイルとして定着していきます。プロコピオはお客さんを喜ばせるためのアイデアを次々と考えだし、確実な成功を手に入れた人なのです。

 
 プロコープはすぐ近くに劇場ができたことにより、まず役者たちに愛される店になりました。それから文人たちにも愛されるようになり、文学的議論の盛んな店となっていきます。ヴォルテールやルソー、モンテスキューなど、幾多の偉人達がこの店に通い、その後はフランス革命に際しての議論がなされるようになりました。
 
 1789年のフランス革命も、カフェとの関係が深いもの。特に革命に関する議論が活発だったのはパレ・ロワイヤルにあったカフェ。今でこそパレ・ロワイヤルの中にはほとんどカフェがありませんが、当時の回廊内はほとんどがカフェだったそう。この頃はまだ文字を読める人が限られていたために、新聞に書かれたことを大声で読み上げて解説する者がいて、その後は議論になったそう。 

19世紀のパリのカフェ

オペラ座付近のカフェ・ド・ラ・ペ
オペラ座付近のカフェ・ド・ラ・ペ

 その後、パリの多くのカフェはどちらかというとブルジョワ階級に愛される、プロコープの形式にのっとった高級なカフェでした。空間は広く、鏡とシャンデリアで豪華に演出。著名人たちが自分を見せびらかしにくる、そんな店が特にオペラ座近くのグラン・ブルヴァール近くに並んでいました。
 
 カフェに大きな変化が現れるのは19世紀後半のこと。この頃から、パリに出稼ぎに来ていたオーヴェルニュ地方出身者たちが、炭を売る傍らで、小さな店の一角にワインが飲めるカウンターを設けます。彼らも商売に対する情熱のある人たちで、稼げるものは絶対に無駄にしないというタイプ。旦那さんが炭を届けにいく間、店で待つ奥さんが家事や子供の世話の傍ら、カウンターでお客にワインを注ぎます。こうして庶民的な「カフェ・シャルボン」(シャルボンとは炭のこと)といったタイプの店が増え、労働者たちに愛される小さなカフェがパリに生まれていくのです。
 
エドガー・ドガ「アブサン」オルセー美術館蔵
エドガー・ドガ「アブサン」オルセー美術館蔵

 有名なモンマルトル、パリの北に芸術家達が集まり始めたのも19世紀後半のこと。1866年から画家のエドゥアール・マネは、モンマルトルの麓にあるカフェ・ゲルボワに友人たちを集めて芸術談義をするように。当時のサロンに入選したくてもできなかった彼らは新しい時代の芸術についてこのカフェで熱く議論を重ねていたのです。そこにはモネ、ルノワール、ドガ、ピッサロなどが集っていました。ゲルボワの後彼らが集うようになったのはヌーヴェル・アテネというカフェで、ドガの「アブサン」(元の題名は「カフェにて」)はヌーヴェル・アテネをモデルにしたもの。1881年には伝説的なカフェ、シャノワールがモンマルトルに開店。翌年創刊されて13年間続いた同名の新聞には才能あふれるイラストレーターが表紙を描き、彼らの名もまた有名になっていきました。こうして当時まだ郊外で田舎らしい雰囲気が強く残っていたモンマルトルの丘に、次第に芸術家が集まり始めます。芸術家を好んだ主人のいた酒場、ラパン・アジルや、芸術家用のアトリエ兼住宅だった「洗濯船」もあり、スペインからやって来たピカソをはじめ、ヴラマンク、モディリアーニなど、沢山の若き芸術家がモンマルトルに出入りし、モンマルトルの黄金時代となるのが1900年代初頭までのこと。 

モンパルナスのカフェ文化

ロトンドとヴァヴァン交差点
ロトンドとヴァヴァン交差点

 1905年、当時著名だった詩人のポール・フォールは、パリの南のモンパルナスのカフェ、クローズリー・デ・リラで詩の集いを開催します。この集いにはパリの詩人や作家だけでなく、世界中から作家や音楽家までもが集まったそう。この集いに非常に刺激を受けた若きピカソはそれ以降、モンパルナスとモンマルトルの往復を繰り返すようになるのです。
 
 1911年、モンパルナスに小さなカフェ、ロトンドがオープン。まだ場末だったモンパルナスにあえて店を出した主人のリビオンは、お客さんを愛することによって帝国を築こうとしていきます。この店のあたたかさは次第に貧しかった芸術家たちの評判を呼び、この店は芸術家で溢れるようになっていきます。次第に観光化されてきたモンマルトルを避け、ピカソをはじめとする芸術家達もモンパルナスへと引っ越ししていきます。ピカソという求心力を失ったモンマルトルはだんだんと過去のものとなり、モンパルナスの新しい時代が始まります。ロトンドには貧しかったモディリアーニや日本から来たばかりの藤田、キスリングやピカソ、のちにモデルとして有名になるキキなどが通っていました。
 
ボーヴォワールもここで時を過ごした?ドームのテラス
ボーヴォワールもここで時を過ごした?ドームのテラス


 ロトンドの目の前には19世紀後半から、中欧出身者たちに愛されているカフェ、ドームがありました。ロトンドが成功した大きな理由の一つに、日当りのよかったテラスが挙げられます。特に陽の光のまぶしい国から来た人たちにとって、このテラスで日光を浴びることは何よりの幸せだったとか。それに対して大きな道路を一本はさんだドームのテラスは北向きで、どちらかというと暗い雰囲気。ところがロトンドが満員で人が入れないようになってくると、今度はドームの出番です。1930年代からはドームや新しいカフェ、クーポールの時代。ドームには彫刻家のザッキンや若き日のボーヴォワールなどが足しげく通っています。ボーヴォワールは一冊の小説の舞台にドームを使っているほど。まだ有名になる以前、なんとかして作家になりたいと望んでいた彼女は執筆の苦労をこう語っています。 「彼らの囁き声は私の邪魔にならなかった。白い紙を前にした孤独はきびしいものだ。わたしは目を上げ、人びとの存在を確かめる。それは私に、いつか、誰かの心に触れるかもしれない言葉を書き綴る勇気を与えた。」(ボーヴォワール『女ざかり(上)』)
 
広大な店内はまるで巨大なテラスのよう
広大な店内はまるで巨大なテラスのよう

 クーポールもまた、オーベルニュ地方出身のオーナーが成功をねらって作ったブラッスリー兼カフェで、当時の有名人たちの社交場としての機能を果たした店でした。非常に高い天井に広大な空間。巨大なテラスのような店内で、知った顔を探し、ちょっと話をし、またネットワークを広げていく。モンパルナスには大きなテラスやクーポールがあったことで、誰かにちょっと紹介さえしてもらえば、知人の幅を広げることが容易にできたのです。
 

サン=ジェルマン・デ・プレのカフェ文化

カフェ・ド・フロール
カフェ・ド・フロール

 だんだんと街が有名になり、観光バスまでが通るようになってくると、それまでの親密さを楽しんでいた人たちは落ち着く場所を探し始めます。そして次の場所となるのがサン=ジェルマン・デ・プレです。もともと出版社が多く、出版関係の人たちが多かったサン=ジェルマン・デ・プレでは、彼らが打ち合わせの場所としてカフェを使うこともありました。20世紀の初めに詩人アポリネールに愛されていたカフェ・ド・フロールは、当時は詩の集いなども開催されていたものの、再びさびれたカフェになっていました。ところが1939年にポール・ブバルが店の主人になってから、この店は変わります。ブバルも話好きな主人で、彼自身の魅力に敷かれて多数の文芸関係者たちがこの店を選ぶようになります。ボーイのパスカルも非常に博識かつ、控えめで、かゆいところに手が届く人だったそう。まずジャック・プレヴェールなどの映画関係者がこの店にたまり、そんな雰囲気に惹かれた若きボーヴォワールやサルトルもこの店を選びます。
ドゥ・マゴのテラス
ドゥ・マゴのテラス

 フロールの目と鼻の先には高級感のあるカフェ、ドゥ・マゴ。こちらはパリで一番といわれるテラスのあるカフェで、サン=ジェルマン・デ・プレ教会に面した広くて日当りのいいテラスは昔からいつも満席。店内は意外とこじんまりして、こちらは既に有名でお金のあった作家に愛されました。また、アンドレ・ブルトンから破門された元シュールレアリストたちもこの店に集ったそう。ドゥ・マゴの目の前にはブラッスリー・リップがあり、こちらはかねてからビールの評判だった店。ヘミングウェイもこの店のビール飲みたさに、貧乏時代の食事抜きというやせ我慢をした後、結局大金を払ってビールと肉製品に舌鼓を売っています。リップは主人の巧みな計らいがあり、政治家達に愛されていました。通される席はいつでもきちんと決まっていて、様々な政治家が来るとはいっても一定の秩序が守られた店でした。
 
 フロールの成功の大きな理由は石油ストーブがあったことでもありますが、他の店では拒否される客達を受け入れたことも重要でしょう。上質な空間を維持しようとするドゥ・マゴから追い出された客をフロールが受け入れる。こうしてフロールは他に居場所がない人たちの真の避難所となっていきます。サルトルやボーヴォワールはほとんど一日中この店で過ごしていたのです。戦時中も彼らを見守り、戦後の実存主義の台頭とともに一躍世界的に有名になったフロール、そしてサン=ジェルマン・デ・プレには世界中から若者が溢れます。多くの人たちが夢見てやって来たパリという街、その夢の中にいつも存在していたカフェのイメージ、それはまさに自由であり、未来へつながる出会いであったのかもしれません。

より詳しい歴史やカフェの魅力を知りたい方は是非拙著『caféから時代は創られる』をご覧下さい。